under the rose

明楽の入学式・5

「ぁ……っく、ふ……ふぅ……っ」
 こぼれそうになる呻きを噛み締めて、明楽はじっと立ち尽くしていた。
 合計1時間半にも及ぶ入学式と始業式を終えて、講堂横のトイレはかなりの混雑を見せていた。4つある個室に続く順番待ちの列には、どれも5、6人の少女が並んでいる。
 そんな中でも明楽の様子は際立っていた。不安定な下腹部が繰り返し発作を起こし、ぐりゅぐりゅと腹奥がうねる。明楽は暴発しそうになるガスを押しとどめるようにしてスカートの後ろに手を回し、直接、突き出したおしりを押さえていた。
 その有様はあまりにも不恰好で、少女としてはとても許されるようなものではない。だが今の明楽には、ひとりの少女として体裁を取り繕う余裕すら残されていなかった。
「ぅ…くっ」
(だめ……おなか苦しいっ……と、トイレ、早くぅっ……)
 ごぽり、と内臓の奥が撹拌されるような不快感が明楽の下腹をうねらせる。一刻も早く排泄をねだる汚らしい器官が惨めな音を立て続ける。

 ぐきゅるるる……きゅぅう…っ

(ふぅぅっく……っ、ぁ、あとちょっと、ちょっとだけだから……っ、トイレ、もうすぐトイレ……うんち、できるから……っ)
 蠕動する下腹部をなだめるように押さえ、明楽は祈るような気持ちで繰り返す。
 講堂での地獄のような我慢の最中で、明楽はあれからも何度かガスを漏らしてしまっていた。最初の2回に比べれば小規模なものだったが、静寂に包まれた講堂では些細な異音すらはっきり響く。講堂の中で断続的に悪臭を振りまいた『犯人』がいることに、あの場にいたほとんどの生徒が気付いていただろう。だが、隣の顔もわからない新入生同士ということが幸いし、毒ガステロの犯人特定までには至っていない。だから、明楽はなんとしても、ここでお腹の中に溜まった腐臭の源を処分してしまわなければならなかった。
 ほとんどの子が、明楽とは違う目的でトイレを利用しているようだった。順番待ちの列はさほど経たないうちに解消し、明楽の順番も見る間に近づいてくる。あとすこし、あとすこしだけと繰り返しては挫けそうになる心を鼓舞し、明楽はできるだけ平静を装ってそっとおなかをさする。
「ねえ、校長先生、話長かったよねー」
「……うん、漏れちゃうかと思っちゃった。……あははっ」
「もう、馬鹿いってないで早く行こ? ホームルーム、遅刻しちゃうってば」
「あ、待ってよー」
 用を済ました少女達が、すっきりと爽やかな顔で空いた個室を次の順番を待つ少女に譲り、談笑しながらトイレを出てゆく。
 一人ずつ短くなってゆく列は、まるで明楽の排泄の許可をするカウントダウンだ。
(あと、さんにん……っ、3人、……あとちょっと、3人、3、2、1、あと、いまと同じのを、3回だけっ……おしりぎゅって押さえて、ぐって、がまん、おんなじだけ、あと3回分、すれば、トイレ、トイレできるからっ……)
 少しずつ、しかし確実に進む列の順番を数えながら、明楽ははしたなくスカートの上からおしりを押さえ、込み上げてくる衝動にじっと耐え続ける。
 ほどなくして1ヶ所、、さらに続けてふたつの個室が空き、順番待ちの列は明楽を先頭にした。
 4つの個室が明楽の目の前に並ぶ。そのどれもが今は使用中だが、どこかひとつが空きさえすれば、明楽はすぐにでもそこに飛び込むことができた。
(はやく、はやくっ、はやく空いて、トイレ……トイレしたい、うんちしたい…!! はやく、早くっ、はやく!!)
 明楽の頭の中ではすでにスカートを下ろし、排泄を開始する自分がシミュレートされている。トイレの中で汚れたおなかの中身を残らず掃除する――そうして空想の中ですっきりするつもりになって、白い下着の奥で獰猛に牙を剥こうとする排泄衝動を抑え込んでいるのだった。
(あとちょっと……っ もうすぐ、もうすぐトイレ……っ、よっつ、どれでも、トイレ、空いて、すぐ……うんちできるっ……!!)
 明楽がこくり、と震える喉に唾を飲み込んだ時だった。
「なんだ、けっこう混んでるじゃん」
「だから早くしようって言ったのに。どうする? 校舎までいってみる?」
「いいよもう。面倒だし」
 どやどやといくつもの声が背後から聞こえてくる。どうやらまた数名、生徒たちのがトイレの順番待ちに並んだらしい。どうやら仲良しグループのようで、お喋りに夢中になりすぎて講堂を出てくるのが遅れたらしかった。
 だが、もうそんな事は関係無い。明楽はもう列の先頭にいるのだ。どれだけ後ろに列が伸びようと、次にトイレに入れるのは明楽なのだ。
「ったく、ここの校長先生も話長いよねー。30分もよく喋ることあるなって感心しちゃう。あんなの『学校に迷惑賭けるな』の一言で済むじゃん」
「あはは、言えてるー。はやくして欲しいよねー」
(はやく、はやくっ、はやくぅ……っ)
 かなりのボリュームでお喋りに興じる少女達の声をほとんど聞き流すように、明楽は焦れる心をじっと押さえ、個室が空くのをじっと待つ。いまはただそれだけが明楽の切望する事柄だ。
 そして、
 ――がちゃり、と一番右の個室のドアが開く。
「っ……」
(あ、開いたっ、わたしの番だっ…!!)
 弾かれるように、明楽は飛び出していた。中に入っていた子が出てくるよりもはやく個室に駆け寄って、ほとんど押しのけるようにして中に飛び込む。いきなりのことに相手が『きゃっ』と小さく驚きの声を上げるが、すでに明楽には個室の奥にあるうんちを済ませるための場所しか見えていない。
 個室に入るなりドアを乱暴に締め、後ろ手にがちゃり、と鍵を落とす。
(は、はやくっ……しなきゃっ……、で、でちゃうっ)
 周囲からの視線を高い壁に遮られ、小さな密室となった個室が完成する。薄桃色のタイルと、しゃがんで使用するタイプの和式便器。
 そこは紛れもないトイレ、うんちをするための場所。明楽が、自分を苦しめ続ける腐ったお腹の中身を排泄することを許された、秘密の花園だった。

 ぷ……ぷうっ、ぷすすぅっ……

(ま、待って、まだダメっ……!!)
 待望のトイレを目の前にして、先走った排泄器官が敏感に反応する。排泄孔がぷくりと盛り上がり、下着の奥で可愛らしいオナラの音が響く。おしりの孔を必死に締め付けて、もう今すぐにも始まってしまいそうな排泄をぎりぎりのところで抑え込み、明楽は震える指先で下着に手をかけた。
「――それにしてもさ。すごかったわよね、さっきの」
「もう……やめてよその話。思いだしちゃうじゃない。気持ち悪い」
「ホント臭かったよねー」
(っ……!?)
 ドア越しにもはっきりと届く少女達のお喋りの中に混じった、聞き逃せないフレーズを聞いて、反射的に明楽の下腹部がきゅうっと縮みあがる。
「なに考えてるのかしらね、あんな時にオナラとかって信じられなくない? トイレ行けばいいのに」
「音もすっごかったよぉ? ぶびびびびー、なんつって」
「やっだ、下品だってばっ」
「ぶぶぶぅーっ……あっはははっ!!」
 物真似に反応した少女達が一斉に笑いだす。それはおそらく、明楽の仕出かしたガスの放出の口真似だ。実際はその大半がかすかな音しかない、いわゆる『すかしっ屁』だが、彼女達は犯人が分からないゆえそれを大袈裟に表現していたのだ。
 だが、明楽の放出してしまったガスの量は確かに大量であり、悪臭もそれに勝って凄まじいものだったのは確かだ。
「ホント誰なんだろうね、アレ」
「さあね。でもさ、あたしだったら絶対あんなところでできないわよ? もう失格でしょ、女の子としてさぁ」
「言えてる。あんなのして平気なんだったらいっぺん死ねよって言いたいわね」
「笑い事じゃないってば。前の席の子、最初わたしがしたと思ってこっち睨んでるのよ? 誰だか知らないけどふざけんなって感じ」
(ぁ……っ)
 よくよく注意すれば、そのその声のいくつかには明楽も聞き覚えがあった。教室で明楽が聞いたもの――そして、明楽をたしなめたポニーテールの少女のものだ。
 蒼白になる明楽を、低く唸る下腹が責め立てる。

 ぐりゅるるるぅ……

(ぅ、あっ、あ、やだっ、やぁあっ……)
 下着の中にまたもぷすっ、ぷすぅとガスを吐き出して、明楽はへっぴり腰になりながらお腹を押さえ込む。むぁっと込み上げる自分の臭気に、少女は真っ赤になって俯いた。
「ホント信じらんない。ふつー、中学生にもなってあんなオナラできないって。子供じゃないんだからさぁ。我慢しろって感じ」
「ってかアレもう漏らしちゃってたんじゃないの? あんな臭かったんだし」
「言えてるー。ねえ、その子何食べてるのかな。やっぱ腐ったゴハンとか?」
「生ゴミじゃないの?」
「あははっ、ひっどーい」
(や、やだ……っ)
 彼女たちもドア一枚を隔てた向こうにその張本人がいるとは思わないのだろうか。明楽を傷つけるには十分すぎるほどの、あまりに理不尽で暴力的な言葉の群れが次々と並べられてゆく。晴れの入学式で途方も無い悪臭を撒き散らした惨劇の『犯人』の顔が見えないことが、かえって彼女達の非難を際立たせていた。
「だってあたしの身にもなってよ。すぐ目の前ぽかったのよ? もう臭くて臭くて。毒ガステロなんてもんじゃなかったんだから。ふざけんなって感じ」
「幼稚園とかならわかるけどさぁ。いい歳してちゃんとトイレ行けよって話よねぇ」
「きっと毎日オモラシしてるんだよ。ああいう子ってさ」
「あはは。かわいそー」
 応じる少女達の――恐らくは、明楽と同じ教室で学ぶであろう、クラスメイト達の無遠慮な笑い声。
 明楽はぎゅっとおしりを押さえ、ぐるぐるとうねる下腹を抱え込みながら、じっと小さく身を丸める。
(ダメ、出ないで、でちゃだめぇ……っ!! き、聞こえちゃう……!!)
 灼熱に滾るガスが激しく前後する腸の中身は、どう考えてもおとなしく外に出てくれるとは思えない。一度や二度音消しの水を流したところでとてもごまかせるものではないのは明らかだった。ひとたび排泄が始まってしまえば、暴力的なまでの直接的、間接的な被害を周囲に撒き散らすのは明白だ。
 加えて、ここのトイレは、なんとも巡りの悪いことに和式だった。排泄物が水に沈む洋式ならば防げたはずの悪臭が、そのままダイレクトに外に拡がってしまう構造なのだ。
(……っ)
 確かに女子トイレの個室は外からは隔離された見えない密室だが、一見頑丈な四方の壁も、安全と管理の問題上から上下部分に大きな間隙をつくっており、物音も匂いも遮るものはない。
 つまりは、ここでうんちを始めてしまえば、その瞬間に明楽がナニをしているのか、いまトイレ入っている生徒達にもはっきりと伝わってしまうのだ。

 ぐりゅりゅるるるぅ……

 激しく下腹がうねる。蠕動を繰り返し圧力を高める下腹部が、その中身を吐き出そうと少女に訴えかける。
(……無理だよぉ……っ、ここじゃ、……うんち、できない……!!)
 目の前に、やっとうんちを済ませることのできる場所が、切望していたトイレがあるというのに。非情にも現実は明楽に排泄を許さなかった。
(がまん……がまん、しなきゃ……)

 ごろ、ごろろるっ……ごきゅう……

 あまりにも不穏にくねる排泄器官の蠕動を、ぐっと飲み込むように下腹部を押さえながら。明楽はとうとう諦めてドアの鍵を開ける。形だけ流した水の音が、まったくその必要のない、綺麗なままの便器の中を洗い清めてゆく。
 より一層排泄欲を刺激する個室をあとに、明楽は足早にトイレを立ち去った。



 (続く)
 

2010/04/01 我慢長編