under the rose Entry 149

明楽の入学式・1

 洋式便座の上で息を詰め、真っ赤になって、明楽はおなかに力を入れ続ける。
 ぎゅっと握り締めた手のひらに汗が滲み、硬く張り詰めたおなかが痛くなってくる。
 しかし、そうやって少女がどれほど気張ってみても、鈍く澱む下腹部はまるで目立った反応を見せず、とうとう息が続かなくなってしまうのだった。
「っ、はぁ、はぁ……はぁっ」
 詰めていた息を吐き出すと、お腹に篭っていた力も抜けてゆく。強張っていた足をトイレの床に投げ出して、明楽は荒くなった呼吸を繰り返した。



 (続く)
 渾身の踏ん張りと息みで一度はぱくりと口を開き、肉色の内側を覗かせていた排泄孔もくるんとすぼまり、もとの格好を取り戻した。
 便器に腰掛けたまま、どんよりと沈む気分を拭い去れず、明楽は深い溜息をつく。
(…今日も、出ないや……)
 明楽が、トイレに行ってもまるっきりすっきりできないことに気付いて、もう4日になる。どちらかと言えばあまりお通じの良くないほうである明楽には、これまでにも二日三日、ウンチを済ませないことは時々あったことだが――こんなにも長い期間、排泄の兆候すらもないのははじめてだった。
 トイレに閉じこもってどれだけ気張ってみても、まるで明楽のおなかはうんちをする方法を忘れてしまったように動いてくれなかった。息んでも息んでも排泄孔だけがぱくぱくと蠢き、何も出すものがないよいうように孔口を開ける感覚ばかりで、明楽はそのたびに言うことを聞かない自分の身体を呪ってしまう。
 なにしろ今日で便秘7日目。
 もう一週間以上、明楽はうんちを出せていないのだ。
(あ……)
 どんより沈む気分で壁の時計を見れば、そろそろ7時40分を回ろうとしていた。そろそろ学校の時間が迫りつつある。
 明楽はとうとう今日もうんちをすることを諦めて、カラカラとトイレットペーパーを引っ張った。まったく汚れていない後ろの孔と、オシッコの出口をそれぞれ別々に綺麗に拭いてトイレを立った。
 ゴボ、ゴボボジャァアーーーッ……と大きな水音を立てて流れてゆくトイレを後に、憂鬱なため息を残して手を洗う。
 幸いにして、今のところ便秘による身体の変調はなかったが、1週間という長い排泄のなさは明楽の心を支配していた。今日こそちゃんとしよう、と決心して何十分もトイレに閉じこもっても、出てくるのはせいぜいおならか、焦げ茶色いカケラのようなものがころころとする程度。すっきりとするにはまるで及ばない。
 そうやって明楽が気にすれば気にするほどおなかは鉄のように鈍くなって、おしりの孔だけがじんじんと痛むばかりだった。
(ちょっとだけだけど、出そうな気がしたのに……)
 すっかり支度を終えた後でトイレに入ってしまったのも、ほんの少しだけ下腹部に感じた違和感のせいだった。それも結局気のせいだったのだ。おなかは変わらずずぅんと重く張って、1週間に渡って溜めこまれた食事のなれの果てをくすぶらせている。
「はぁ……」
(今日、入学式なのに……)
 鏡に映った紺色の制服を見て、また溜息をつく。この春から通うことになった学校の制服は、まだ幼さの残る明楽にはすこし大きい。これまでとは違う制服は、明楽が一歩『オトナ』に近付いたことの証でもある。
 そのはずなのに、まだ自分がきちんとトイレも済ませられないなんて、本当にみっともないように感じられてしまう。
(昨日のお薬も効かなかったのかな……)
 一昨日、明楽は薬局に入り、顔から火が出るくらいに恥ずかしいのを我慢して、おこづかいをはたいて便秘薬を買った。はじめてだからあんまり強くないお薬を、という店員さんのアドバイスにしたがって漢方薬のものを選んだのだが、二日飲み続けてもまるで効果はなかった。昨日の分は量を倍にしているというのに、今日もまったく変化はない。
 憂鬱な気分でトイレを出た明楽は、鞄を手に玄関へ向かう。
 共働きの両親はすでに会社に行っていて姿は見えない。それでも、連絡用のホワイトボードには入学式を案じる母の言葉があり、明楽の心をいくらか落ちつかせてくれた。
「……うん。がんばろう」
 今日から始まる新しい生活。新しい毎日。
少しでも気持ちを切り替えようと、明楽は一人、『いってきます』と挨拶をしてドアの鍵を閉め、家を出た。





 朝の空気の中を、爽やかな雑踏が過ぎてゆく。
 明楽の街は大きく海に面している。海に向かって下る坂道を登ってゆくのはJRの駅に向かう大学生やサラリーマン。逆に海へと向かうのは明楽と同じ中学に通う生徒たちだ。みんなおなじ紺色の制服に身を包んで、口々に話しながら歩いている。
 そんな中にいると、明楽はの視界はだんだんと靴の爪先へと落ちていってしまう。
 明楽は、あまり人とおしゃべりをするのが得意ではない。アキラ、という読みの男の子みたいな自分の名前のせいで誤解されがちだが、どちらかと言えば明楽はおとなしい女の子で、外で遊んだりみんなとでお出かけするのよりも、図書館で一人静かに本を読んだりする方が好きだ。
 だから、明楽は自分の名前が好きではなかった。
 両親が生まれた時にちょっと体重が足りなかった赤ちゃんが元気に育ちますようにと願いを込めて付けてくれた名前だけど、初対面のたびに男の子みたいな名前だねと言われてしまうのには、もううんざりしているのだった。
(……はぁ)
 そんな自分の性格が嫌で、明楽はいつも一生懸命になって引っ込み思案な自分を直そうとしているのだが、これまであまり上手くはいっていなかった。
 実は今回の体調不良も、入学式、中学校での新生活という新しい環境を前にして『オトナ』にならなきゃいけないという見えないストレスになって起きているものなのだが――それに明楽自身は気付けていないのである。
「ふぅ……っ」
 制服のスカートが、ほんの少しだけきつい。先月にきちんと採寸して作ってもらっただいぶ大き目の制服なのに、今の明楽のおなかはぱんぱんに張っていて、動くたびにじんわりと痛むような気がする。
 どんよりと濁ったものがお腹の奥に澱んでいる感触は、忘れようにも忘れられず、明楽はいつも以上に落ち込んでしまっていた。
 いくら気にしないようにしようと考えても、1週間もうんちを済ませられず、今もなおおなかの中に排泄物を溜め込んでいるという事実は、女の子としてはあまりに恥ずかしいことに思えた。
(嫌だな……学校で、はじまっちゃったりしたら……)
 想像はどんどんと嫌なほうに悪い方に傾いてゆく。
 明楽はぎゅっと唇を噛んだ。さっきまでは出したくてたまらなかったおなかの中身だが、もし学校でそんなことになったら大変だ。明楽は家の外のトイレをほとんど使ったことがない。壁ではなく板で仕切られた個室が並ぶ学校のトイレは、視界だけは遮られるものの、音や匂いはまる通しなのだ。注意さえしていれば、隣の個室に入った子が何をしているのかなんて簡単にわかってしまう。それは多分、上の学校でも同じだろう。
 羞恥心が人一倍強い年頃の少女にはとても耐えられるものではなく、そんな場所を使うのは明楽もよほど切羽詰った時だけだった。
 まして大事な入学式の日にそんなことになってしまったら、どんな噂をされてしまうかわかったものではない。
 不穏な想像に頭を悩ませつつ、明楽がもう一度ため息を付いた、その時だった。

 ぐるぅ……っ

「……ぇ…」
 はじめは気のせいだと思っていた。けれど、すぐに二度、三度と重い音がおなかの奥に響く。耳ではなく身体を伝わってくる鈍い音は、確かに明楽の身体の内側から発せられたものだった。
 明楽は息を飲んで、重く張り詰めたおなかに手を当てる。

 ぐるるるぅ……ごきゅぅうぅっ……

 注意していなければ分からないほどのかすかな異音。けれど、4度目に鳴り響いたそれははっきりと明楽の耳に届いた。
(う、うそ……)
 これまでどれだけ体操をしても、薬を飲んでも、トイレで頑張っても微動だにしなかったおなかが、ぐるぐると鈍い音を立てている。
 空腹のそれではありえなかった。朝食のハムサラダとトーストはきちんと食べてきたし、おなかはまるで空いていない。そしてなによりも、音の発生源はそれよりももっと下、明楽の下腹部から伝わってくる。
「ちょっと、急に止まらないでよっ」
「あ、ご、……ごめんなさいっ」
 立ち止まった明楽にぶつかりそうになった二年生のグループに道を譲って、明楽は慌てて頭を下げる。
 その間にも、また明楽のおなかはぐるるるぅ……と鈍い音を立てた。
(うそっ……これ、本当に……?)
 背筋がおののく思いで、明楽はぎゅっとスカートの裾を握る。
 確かに、これはおなかの音だ。内臓が活性化し蠕動が起きる予兆だ。この1週間一度もなかった出来事に、明楽は慎重におなかの様子を探る。
「…………」
 制服の上からおなかに手を添えて、そっとさする。
 異常は……ない。おなかは完全に沈黙していて、まるで平静、平穏。ベタ凪だ。トイレに行きたいなんてことは少しも感じない。
 何度確認してもそれは変わらなかった。
 それなのに、妙な音だけが下腹部で蠢いている。正体不明の蠕動は、身体に異常をもたらしていない分だけ不気味に感じられた。
(……なんでもないの、かな……)
 慎重に、周りからは気付かれないようにおなかを撫でる。
 何度か低く鈍い音を立てながら唸り声を上げる自分の下腹部――明楽は不安を抱えたまま、ゆっくり歩き始めた。
(…………へいき、だよね……?)
 慎重な足取りでそろそろと進む。一度そうやって意識してしまえば、下腹部に集まる重い澱んだ気配はますます強くなっているような気がした。
 明楽が、ここまで神経質にトイレのことを気にするのには訳がある。
 小学校5年生のときのこと。当時、両親の勧めでテニスのサークルに所属していた明楽は、一泊二日の合宿に参加していた。慣れない仲間と知らない土地、そんなちょっとしたことの積み重ねは、しかし繊細な少女の身体に大きな異変を及ぼし、明楽は行きと帰りのバスの中で3回もトイレに行きたくなってしまったのだ。
 トイレに入れる機会はきちんとあったのだが、恥ずかしがり屋の明楽は外のトイレを使うのが嫌で、その結果バスの中でどうしようもなくなり、なんと3回もバスを止めてしまったのだ。
 2回目までは運良く近くにあった公衆トイレに駆け込むことができたが、最後の1回はなんと高速道路の上。明楽は、部活の皆が乗っているバスの中でエチケット袋にトイレを済ませなければいけなかった。
 引率の先生はフォローしてくれたが、5年生もなってトイレが我慢できない子だということはたちまち噂になり、明楽はついにサークルをやめなければならなかった。その時の死んでしまいたいくらいの恥ずかしさ、情けなさは少女の心に深いトラウマになって突き刺さっている。
 だから、もうそんな子供のようなことは絶対に繰り返すまいと、明楽は固く心に誓っていたのだった。
「どう、しよう……」
 通学途中の生徒達に次々と追い越されながら、幼い少女は思い悩む。
 一週間ご無沙汰の排泄、という事実は重く少女の頭を支配している。明楽がおなかの中に不安な爆弾を抱えているのは確かなのだ。そして、これから明楽は入学式という長い式典に臨まなければいけない。
 もしその時に、今はないような便意が本格的に襲ってきたなら――
 いったいどうなってしまうのか、想像するだに恐ろしい。
 いっそ家まで戻ろうかと考えたりもしたが、流石に今来た道を戻ってトイレに入り、また再び学校まで行くにはいくらなんでも時間がかかりすぎる。
気を揉みながらのろのろと歩いていた明楽の視界に、見なれたコンビニのマークが見えたのはその時だった。
(……あそこ、なら……)
 前に、一度だけ。明楽はこのコンビニのトイレを使ってしまったことがあった。
 その時は確かオシッコの方だったが、もうどうしようもないくらいトイレに行きたくなって、とうとう我慢できなくなってしまったのだ。お世辞にも綺麗なトイレとは言えなかったが、それでもオモラシの悲劇を回避できたのは今でも記憶に残っていた。
 具合のいいことに、あのコンビニのトイレは自由に解放されていて、いちいち店員さんに使っていいかどうか聞いたりしなくてもこっそりと入れるのだ。
「……うん。そうだよね……」
 引っ込み思案な自分とさよならをして、ちゃんとした『オトナ』になるために。ここで昔みたいに外のトイレに入るのを恥ずかしがってはいけない、と明楽は決心する。着ている制服も、明楽に力を貸してくれているようだった。
 ぐっと拳を握り、明楽はコンビニの入り口に向かう。
『いらっしゃいませー』
 店員の挨拶に出迎えられながら、そそくさとドアをくぐった。
 会社や大学に向かう大人たちが朝食や新聞や煙草を買うのでごったがえしているコンビニは、明楽のような中学生が一人で入ってゆくのにはかなりの勇気を必要とした。
(ごめんなさい……おトイレ、使います……)
 明楽はけっしてお客としてここに来たのではない。ただただ、重苦しいおなかをすっきりさせるためだけにコンビニに入っただけなのだ。それが罪悪感になって、少女の顔を俯かせてしまう。足早に店内を横切って、明楽は奥のトイレに一直線に向かった。
 男女共用のトイレは飲み物を売る冷蔵庫の棚と、雑誌を売るフロアの間にあった。
 鍵が掛かっていないのを確認して、ドアをノック。返事がないのを確かめて個室に入る。
 中には古いタイプの和式の便器がひとつ。
 掃除はそこそこの頻度でされているせいか嫌な匂いこそしないが、くすんだ色のタイルと、無造作に積まれた予備のトイレットペーパーが明楽に生理的な嫌悪を催させる。清潔な家のトイレに慣れた明楽には、それだけで出したいものも引っ込んでしまうような気分だった。
「…………っ」
 回れ右をしたくなるのを我慢して、明楽は鞄を荷物起きに乗せ、スカートをそっとたくし上げた。下着を下ろしてゆっくりとしゃがみ込む。
 明楽の家のトイレは洋式で、こうして深くしゃがみ込んで排泄を試みる機会はない。いつもと違う姿勢のせいか、さっきまでのおなかの音のせいか、今度はちゃんとうんちが出てきそうな気がした。
 明楽はゆっくり水のレバーを倒し、音消しをしながらおなかに力を入れる。
「ううんっ……っ」
 鼻にかかった少女の声が、狭い個室に響く。
 むき出しになった白い肌がゆっくりとうごめき、小さな下腹部が緊張と弛緩を繰り返す。何度も息んでは拭いていたせいか、明楽のおしりの孔の周辺はいくらか赤くなっていた。小さなすぼまりは明楽が息むのにあわせてゆっくりと盛り上がり、ふっくらと綻びて、飴色のなかに綺麗なピンク色の、内臓の色を覗かせる。
「ふぅぅぅうっ……くうぅっ……」
 けれど、明楽が可愛い眉をぎゅっとよせていくら気張っても、おなかの中身は重く澱むばかりで、まるで動く気配がなかった。タイルの上に革靴の底を擦らせて、明楽は姿勢を変えながらなんどもおなかの中に『うんちを出せ』という命令を繰り返す。
「んんっ……んっ、んんっ……っ!!」
 長く長く息を止め、ぐっとおなかを押し込んでみても、結果は同じ。相変わらずの便秘が少女の身体を支配している。
 ふぅーっ、と大きく息をして、明楽は俯く。
(やっぱりダメなのかな……)
 わざわざトイレに入ったのに、ちゃんとトイレも済ませられない。情けなさと恥ずかしさで、顔から火が出そうだった。
 と……
 がちゃ、というノブを引く音に明楽ははっと身体を竦ませた。
 空耳かと思うが、それを打ち消すように、ドアを叩く二度の音が狭い個室に響く。

 コンコン。コンコン。

(だ、誰か……入りたいん、だ……っ)
 明楽は慌ててノックを返した。そうしてはじめて、家ではない外のトイレの個室の中で、おしりをまる出しにして、うんちをしようとしている自分に気付く。とたんに沸き起こってきた羞恥心が明楽をがんじがらめに縫いとめてしまった。
 今、外には誰かが、トイレに入りたくて待っている。
 もはやこのトイレですることがない明楽がすべきことは、すぐにでも服を整えて、外の人と変わってあげることだったが、それでは自分がここに――トイレに入っていたことがバレてしまう。
 トイレを。うんちを、しようとしていたことが。
(ゃだ……っ)
 人一倍の羞恥心が一気に高まり、明楽の心臓を鷲掴みにした。あっという間に鼓動が跳ね上がり、明楽はしゃがみ込んだまま動けなくなってしまう。
 個室という密室の中で、次を急かす誰ともわからない相手。それが怖くてたまらない。もし男の人だったら。自分がここで何をしようとしていたのか、全部知られてしまう。想像するだけで気が遠くなりそうだ。
 もはや明楽は動けなかった。ぎゅっと目をつぶり耳を塞いで、表に待つ誰かの気配が遠ざかっていくのを願うだけだった。

 

2010/04/01 我慢長編