under the rose

明楽の入学式・2


 かち、かち……と、痛いほどの沈黙の中を、腕時計の秒針の音だけが響いている。
(……やっぱり、だめ……出ない……)
 個室に駆け込んでから10分あまり。遅刻までの時間はそろそろ秒読みに入っている。完全にうんちを済ませるための体勢を整えながらも、明楽のおなかはそんな役目すら忘れてしまったように、排泄を拒否し続けていた。
 下腹部に溜まった重みが薄れたわけではない。むしろそれは家を出たときよりも増している。しかし、そんな違和感とは裏腹に便意だけがすっぽりと抜け落ちたように感じられなかった。
 さっきまであれほど響いていた腹音もすっかりおさまり、ドアを叩くノックも途絶えて久しい。
(……そろそろ、行かないと……遅刻しちゃう……)
 刻々と進む時計の針に背中を押され、明楽はとうとう諦めてトイレットペーパーに手を伸ばした。朝と同様、まるで汚れていないお尻を丁寧に拭いて、下着を履きタンクのレバーを倒す。
 慣れないしゃがんだままの姿勢でいたせいか、脚が少し痺れていた。
 タンクの水が、白い便器の中を洗い清めてざぁざぁと流れてゆく。しかし明楽の憂鬱はとどまり続け、一緒に流れ去ってはくれなかった。
「はぁ……」
 新しい学校での第一日となる入学式に、おなかに不安の爆弾を抱えたまま参加しなければいけないのかと思うと、明楽の気分はますます沈んでゆく。
 トイレを出ると、コンビニの中の人影はかなりまばらになっていた。もうあまりゆっくりしていられる時間ではないのだろう。コンビニに入る前は大勢見えた紺の制服姿もかなり少なくなって、生徒達は足早に坂を下っている。
「急がなきゃ……」
 こんな気分のままで気分良く心弾ませて登校できるわけがないが、それでも入学式に遅刻なんて許されない。家を出る前の予定ではとっくに学校に到着しているはず時間である。坂を駆け下りてゆく生徒たちに置いていかれまいと、明楽も精一杯気持ちを切り替えて通学路を走りだした。
 慣れない坂道で、鞄の中をかたかたと筆箱が踊る。
 と、それに併せて、かすかな異音が明楽のおなかの奥深くで響いた。

 ぐる……ぐるるるぅ……

「……あ……」
 今度こそ気のせいではない。トイレに入っていた間はおさまっていたおなかの音が、今になってまた活動を開始していた。同時に、おなかの奥でかすかなうねりが蠢いているのも感じられる。
(やだぁ……な、なんで今さら……)
 急に走りだしたせいで、安静を保っていた腹腔の中に刺激されたのだ。
あれほど待ち望んでいたものの予兆が、まるで来てほしくない時にやってくる。自分の身体のことながら、言うことをまるできいてくれないおなかに文句の一つも言いたい気分だった。
 けれど、もうコンビニに戻ってもう一度トイレを借りている時間はとてもではないが残されてはいない。急がなければ遅刻だってありえる時間なのだ。
 後ろ髪を引かれながらも、明楽は通学路を急ぐしかなかった。

 ぐる……ごろろっ……

(うぅ……やだぁ……)
 せっかく気持ちを切り替えようとした矢先、駄々をこねるように唸りだす不穏なおなかにうんざりしながら、明楽は背負った通学鞄の位置を直す。
 坂の先には学校の校門が見え始めていた。桜の花飾りで彩られた看板には、今年度の新入生を歓迎する文字が大きく踊っている。
 今日から始まる、新しい生活。上の学校でのオトナの第一歩。
 その晴れやかな門出を脅かすかのように、繰り返し鳴り響くかすかな異音は、少女の体内でわずかずつその存在感を増していた。





 校門をくぐると、胸に案内役の名札を付けた上級生が並んで、新入生の誘導を行なっていた。新入生は一度、校舎4階の教室に集められてから講堂での入学式に臨むらしい。大きく張りだされたクラス分けの名簿の前にできた人だかりを潜り抜けながら、明楽は昇降口を通りぬける。
 上級生から赤いリボンを受け取り、新しい上履きに脚を通して四階分の階段を上ると、ワックスの匂いが残るたくさんの教室が目に入る。
 真新しい気配は明楽には馴染みの薄いものだ。見知らぬ相手をことさらに強調する出会いの雰囲気に、ただでさえ人見知りの強い明楽の心はますます萎縮してしまう。
(……っ)
 不安と緊張に下腹部がきゅぅと蠢くのがはっきりと感じられる。できるだけ忘れようとしていた下腹部の鈍い重みまでもがじんわりと強まっているようだった。鈍りがちな上履きの爪先をなんとか動かして、明楽は階段を登り、3階にある1−Cの教室へと向かった。
「…………ここ、だよね……」
 廊下の端まで歩いて、目指す『1−C』のプレートを確認した明楽は、恐る恐るドアを引き開け、遠慮がちにドアをくぐる。
 とたん、教室の中に座っていた数名の生徒が振り返って明楽のほうを見た。
「……ぉ、おはよう……ござい、ます……」
「ああ、おはよー。よろしくねー」
 思わず口篭もりそうになってしまいながらも、明楽はどうにか小さく頭を下げ、挨拶を済ませた。これからクラスメイトになるだろう少女の一人が、さして興味がある風でもなく適当な挨拶を返す。
 それきり、ほかの生徒たちは明楽に興味をなくしたようだった。髪を脱色しお化粧を済ませ、校則にもひっかかりそうなアクセサリーを身に付けた彼女たちには、いかにも地味で野暮ったい明楽は声を掛ける価値もないと思われているらしい。そのことを悲しく思いながらも、少しだけ安堵もして、明楽はそそくさと教室の後ろに移動する。
 そんな明楽をよそに、教室の中では今日からの1年間を共に過ごすクラスメイト達が、それぞれに寄り添って席についている。明楽には見知らぬ顔ばかりだが、中には同じ学校から進学した顔見知りもいるらしく、あちこちにはそれぞれ楽しげに談笑しているグループもあった。
「あっは、またおんなじクラスだね、よろしくー」
「こっちこそよろしくねっ」
 別の入り口から入ってきた新入生が、親しげに挨拶を交わし、話の輪に加わってゆく。初対面でも構わず楽しそうに自己紹介を済ませ、グループの輪に溶け込んでゆく様は、明楽にはとても真似のできないものだった。
 まるで自分一人が知らない場所に取り残されてしまったような錯覚を覚えながら、明楽は黒板にある席順から自分の名前を探し、窓際、前から2番目の席に座る。教卓のすぐ近く、勉強熱心ではない子には不人気な座席だった。サボりや授業中の居眠りとは無縁の学校生活を送ってきた明楽にはさして気になる場所ではなかったが、なによりも人目を気にしなければならない今は、背中に沢山の視線を感じる教室の前のほうの座席は、あまり気の進む場所ではない。
 荷物を下ろし、新品のノートを机に移して空の鞄をテーブルの脇のフックに掛ける。用意されていた椅子は大き目で、深く腰掛けると明爪先が辛うじて床に届くくらいだった。
(………あと、5分くらい……?)
 時計の針と黒板に記された行事予定を確認すると、式の開始までにはまだそれくらいの余裕はあるようだった。

 ……ぐきゅるる……きゅぅう……

(まただ……もう、いい加減におさまってよぉ……)
 あれからおさまることなく響き続けている腹音が、明楽をいっそう不安にさせる。相変わらずトイレに行きたいなんてまるで感じないが、繰り返し押しては返すよう続く腹腔のうねりは、馴染まない環境に放り込まれた少女の不安を掻きたてるには十分すぎるほどだった。
 しかし、今日はもう朝から二度もトイレに入って頑張ったのにまるで成果がない。自分の身体に起きている異状をどう扱っていいのか解らないまま、明楽の思考はどんどんと悪いほうへと沈んでしまう。
 そうして机の模様を眺めながら、明楽はぼんやりとクラスメイトたちを眺めていた。
(どうしよう……全然したくならないけど……やっぱりトイレ、行っておいたほうがいいのかな…)
 そう思いはするものの、学校には明楽のほかにも大勢の生徒がいる。そんな中でトイレを使うことには強い抵抗を覚えるのも事実だった。しかも、新しい学校という勝手の分からない環境でいきなりトイレに駆け込むのである。人一倍の羞恥心をもつ明楽には明らかにハードルが高い。
 しかし、さりげなくおなかをさすったり、座る位置をずらしたりしてできるだけおなかに負担を掛けないように姿勢をただしてみても、腹音はいっこうにおさまる気配を見せないのだ。
(……どうしよう……)
 これで十数回目になる煩悶。明楽は収まらない異変に頭を悩ませていた。
 他の子たちが新しい生活に向けて頑張っている中で、自分はおなかやトイレのことばかり気にしている。一週間前からずっとおなかに居座っている汚らしい塊のことにばかり注意を払う自分が、思春期の少女の繊細な心にはあまりにも情けない。
(でも……うん。……そうだよね。……その、入学式の間に、したくなっちゃったりしたら……大変だもん)
 なおもしばらく逡巡を続けていた明楽だが、ようやく気持ちを切り替えることにして、席を立つ決意をする。
 たとえすっきりできないにしても、もう一度行って確認だけはしておいたほうがいい。今日からまた一歩『オトナ』に近づくのだ。もう二度と失敗のないように、用心は重ねておくべきだった。
 だが――
「おーし、新入生注目ー。前を見ろー」
「はい、それじゃあ新入生のみなさん、廊下に整列してください。移動します」
 明楽がせっかく勇気を振り絞り、踏み出そうとした一歩は、無常にもやってきた上級生と、教諭の言葉に遮られたのだった。
「「「「はーいっ」」」」
 応じるように大きく声を上げ、クラスメイトたちが立ち上がる。
 そして、まるでそれに応えるように、明楽のおなかでぐきゅぅ……とさっきまでよりも大きく腹音がうねってしまう。
(や、やだっ!?)
 はっきりと外にまで聞こえてしまうような異音に、赤くなって周囲を窺う明楽だが、幸いなことに席を立つクラスメイト達の雑踏がそれを掻き消していた。
「ほら、後ろの子も早く廊下に出ろ、一列に並べー」
 戸惑う明楽に、担任らしき男性教諭の声が追い討ちをかける。教室に残るクラスメイトたちもたちまちのうちに廊下へと追い出され、出席番号順に作られた列の中に押し込められてしまった。
「よし、全員いるな? じゃあこれから式が始まるから、講堂まで移動するぞ。案内役の上級生に従うように。いいなー?」
「……え、あ、……あのっ……」
 明楽の声は、やはりクラスメイトたちの雑踏に埋もれて担任までは届かない。はっきりとした拒絶もできないまま、明楽は進み始めた列に促されて講堂への移動を余儀なくされてしまいのだった。
 無力な少女の下腹部で、また不気味に小さな異音がうねる。

 ぐる……ぐきゅるるるるるるる……

 さっきまでよりも長く、重く続いてゆくそれは、ことさらに下腹部の不安を募らせる。まるで、これから明楽を襲うであろう悲劇の予兆を囁くかのようだった。


 (続く)
 

2010/04/01 我慢長編