under the rose

明楽の入学式・3

 ぐぎゅぅううううう……

(やだ…ま、またっ……)
 おなかの奥底から湧き上がる異音が、ますます感覚を短くしているのを明楽は感じていた。すでにただの音だけではなく、はっきりとした蠕動の感覚すらある。
 講堂の壇上では、新入生を迎え新たな一年を過ごすための心構えを、初老の学長がとうとうと語っている。しかしそんなものが今の明楽の頭に入るはずもない。
 脳裏をよぎる汚らしい茶色い予感を振り払うかのように、明楽は俯きながらさりげなく下腹部に手を伸ばす。
(お願い……おさまって……っ)
 淡々と進んでゆく入学式は厳かな静寂に包まれていて、些細な椅子の軋みや衣擦れの音まではっきりと聞き取れるほどだ。まだまだ明楽のおなかの音もいつ誰に気づかれてしまうかわからない。まして、この腹音は押さえようとしておさまるものではないのだ。
 そっと押さえた手のひらに、制服越しの張ったおなかの固い感触が返ってくる。
 腹腔に詰まった汚らしい塊の存在ををはっきりと意識してしまい、明楽は羞恥に小さく唇を噛んでしまう。少女の身体の奥に澱んだ重苦しい感覚は、まるで鉛を飲みこんだように顕在化して明楽を苦しめていた。

 ぐるっ、ぐるるっ、ぐるぅるるるるぅう……ごきゅぅううっ……

 ひときわ長く大きなうねりが、腹腔の中から込み上げてくる。まるでなにかの別の生き物が腹の奥に潜んで唸り声をあげているかのようだ。
 いつしか明楽の手のひらにはじっとりと汗が滲み、やってくるうねりに合わせて左右の脚がぎゅっと緊張を繰り返すようになっていた。
 もはや、明楽の姿は見るものが見ればはっきりと“おおきいほう”の排泄の予兆であると分かるほどの仕草を始めている。
(ふぅ……ふううっ……)
 本来は身体にとって自然な反応である排泄欲を無理に押さえこもうとすれば、どうしてもその反動が生じてしまう。荒くなってしまう息を押し殺し、明楽は制服の上から何度もおなかをさすった。だが、硬く張り詰めた下腹部はその存在を誇示するようにますます重く凝り、押し固まったナニかが明楽の腹腔の中で異物感を増してゆく。

 ぐる……ぐるっぐるぐるっ、ぐるるるぅぅ……

 繰り返される異音の正体は、明楽の腹腔で発生・蓄積されたガスの塊であった。不幸なタイミングで一週間の長い停滞を打ち破り、じょじょに活動をはじめた少女の腸の中を、大きなガスのうねりが進んでは押し戻る動作が腹音となって響いているのだ。
 どうして今、この瞬間に明楽の身体がそんな反応を見せたか、その原因はひとつではなかった。一昨日昨夜と立て続けに摂取された整腸剤が遅まきながら効果を発揮し、朝、家を出る前に摂取した朝食が胃の蠕動を通じて下腹部に働きかけ、坂を下っての早足の登校が食後の運動となって自律神経の活性化を促し、さらに慣れない環境で感じた不安やストレスが少女を知らず害している。
 いずれにせよ、これまでは本来の機能を忘れたかのように停滞し、内部に溜め込まれたものを澱ませるばかりだった少女の消化・排泄器官はその本来の活動をようやく取り戻し、生命活動の常として、腹腔の中に蓄積された内容物を排泄するための準備に入りつつあった。
 それは、明楽が自分の身体の異変に気付いて以来のこの4日、待ち焦がれていた瞬間でもあった。
 しかし――
(やだ、よぉ……なんで、こんな時にぃ……っ)
 今は席を立つどころか私語も、身じろぎすらも慎まれるような厳粛な式の最中だ。伝統ある学校に相応しく、この入学式はおよそ一時間あまりも続く。神妙な顔をして席に着く新入生と、それを出迎え今日からの日を一緒に過ごす上級生、誰もが真剣に式に参加している。
 こんな状況でトイレに行きたくなっても、全くどうしようもないのだ。

 ぐきゅ……ごぽぽっ、ぐりゅるるぅ……

(お、おねがい……音、立てないで……っ)
 これまでしたこともないほどに真剣に、明楽は神さまに祈っていた。静まり返った講堂の中に、自分のおなかの音だけが響き渡っているようなそんな錯覚すら覚えてしまう。
 いや、あるいはもう自分の近くの新入生の何人かは、とっくに気付いているのかもしれない。下品な音を立て続けている明楽を、トイレもきちんと済ませられないみっともない子だと思っているのかもしれない。
(おねがいします……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいですから…っ)
 俯いた前髪の下で、あまりにも悲しい奇跡を願う明楽。
 教室でのはっきりとした決意も今はもう遠い出来事のようだ。見たこともない人ばかりのこの大きな講堂の中で、明楽は誰に縋ることもできず、たったひとりだった。いつまで経っても収まる気配がないおなかの異変を、じっと孤独に抱えながら、長い長い時間をじっとじっと絶え続けなければいけないのだ。

 ぐるるっ、ごぎゅっ、ぐきゅる……

 そんな明楽を嘲笑うかのように、下腹部の唸りは止まらない。断続的な異音が響くたびに、おなかの奥をなにか熱い塊が蠢いているのがわかる。それはずっとスカートの上からおなかを押さえたまま、離せない手のひらにもはっきり伝わっていた。
(やだぁ……っ、もう、もぉ……鳴らないでよぉ……っ)
 小さく明楽がしゃくりあげかけた時、不意に隣から声がかかる。
「……ちょっと」
 はじめ、自分のことだけで手いっぱいだった明楽は、自分が話しかけられているのだと気付く事はできなかった。
「ねえ、あなた。ちょっと……!」
 いくらか語気を荒げたようにもう一度。ようやく顔を上げた明楽のとなりに、きつい視線を向ける少女の姿があった。
 明楽にも見覚えがある。さっき、教室でお喋りの中心になっていたポニーテールの女の子だ。明楽に囁きかけるように顔を寄せ、ポニーテールの少女は苛立った声を向ける。
「さっきから、そんなに下ばかり向いてちゃだめじゃないの。ちゃんと先生のお話、聞かなくちゃ」
「え……、あ」
 そうして明楽は、ようやく自分が入学式の席に居る事を思い出す。慌てて姿勢を正そうとした明楽のおなかで、またも『ぐるるるぅう……』と腹音がうねる。明楽はとっさに伸びかけた手を意志の力で押さえつけた。万が一にも不審な動作をして、気付かれるわけには行かない。
 顔を上げた明楽を、彼女ははっきりと不快感を表す視線で睨んでいた。
「もう、ご父兄の方もいらしてるのよ? 子供じゃないんだから、こういう席でくらいちゃんとしてよね。一緒にいる私までみっともなく思われちゃう」
「は……はいっ」
「……しっかりしなさいよね」
 それは、歴史ある学校の晴れの入学式でだらしなくしている同級生を嗜め、自覚を促すための言葉だった。幸いな事に、傍らの少女はまだ明楽の身体の変調を察しているわけではなかったのだ。
 だが、『子供』と『みっともない』『ちゃんとして』というフレーズを含む言葉は、現在進行系でおなかの不安と戦っている明楽にはあまりにも重すぎる一言であった。
(や……やだぁ……っ)
 一通り注意を終えて満足したのか、少女はふんと鼻を鳴らして視線を壇上に引き戻す。
 しかし、明楽のほうはそう簡単には済まされない。急激に強まったプレッシャーと緊張に息を飲んだ。足元から不安が這い登り、少女の全身を包み込むようにして広がってゆく。『きちんとできていない』『みっともない』自分であることを、他人の目を通じて理解してしまったのだ。
 萎縮してしまった明楽はほとんど無意識に腰を浮かし、椅子に腰掛けなおすふりをしながら彼女との間にわずかな隙間を確保する。
 そうして、少しでも表面を取り繕おうとなけなしの努力を払おうとする明楽だが、無慈悲にも下腹部の違和感はそれを許さなかった。

 ごきゅっ、ぐりゅ、ぐりゅりゅるるっ、ぐぎゅぎゅるるるっ、

(う、うそ…!?)
 あまりにも唐突に――いや、たったいま明楽の晒されている急激なストレスを思えば決して不自然なことではないのだが――少女の下腹部を激しいうねりが襲う。
 声を上げる事もできない。いや、たとえ許されていたとしても、この状況では明楽には驚き慌てる事は許されていなかった。
 そんな明楽をよそに、何の前触れもなく沸き起こった大きな波が、少女の腹腔を駆け抜けてゆく。

 ごりゅるるるっ、ぐりゅるるるる、ごぼっ、ごぼぶぼぼっ!!

 これまでの断続的な異音とは訳が違っていた。はっきりと解るほどの大きな音が、明楽のおなかで自己主張をするように呻く。
(や、やだぁ…っ!!)
 うねる内臓。うごめく腹腔。びくびくとのたうつ消化器官。容赦のない蠕動が、小刻みな振動を伴ってゆっくりと動き出す。ぐっと口に両手を当てて塞ぎ、声を上げるのを堪えている明楽には、まるで耳元で騒音が響いているかのようにすら聞こえる。
 この異音は、あきらかに明楽の身体の外側にまで響いていた。これまで明楽の身体の奥深くで密かに起きていた現象が、ゆっくりと頭をもたげるように少女の知覚できる場所にまで迫っているのだ。

 ごるっ……ぐぼっ、ごぼっ、ぐぎゅるるるるりゅぅうっ!!

 これはもはや、異音などではありえない。
 はっきりとした質量と熱さ伴って感じられる、腸の蠕動だった。
(ぁ……あ、だめ、…だ、ダメぇ!!)
 これまで、腹奥の深い場所での違和感こそありはしたものの、直接的な被害は一切感じていなかった直腸にまで、じっとりと湿った熱い塊が押し寄せてくる。
 不定形の流動体――液体よりも遥かに軽く動きやすい、ガスの塊が明楽の排泄孔の内側へと殺到する。
(で、……でちゃ…ぅ……っ!!)



 (続く)
 

2010/04/01 我慢長編